私は2020年3月に、千葉県富津市の金谷にて「田舎フリーランス養成講座」(通称:いなフリ)を受講していました。
受講期間中に4名の講師や運営スタッフの方にインタビューをさせていただいたので、全8回に分けて記事にしていきます。
2人目は、「はるぼー」さん。
はるぼーさんはいなフリ(金谷26期)で、ライティングの講師を担当していました。
いなフリの受講や講師に興味がある人、フリーランスとしての生き方が気になっている人はぜひ読んでみてください!
- twitter:@harubo_0214
- note:「会いたい人に会いに行く」自分の気持ちを大切に。
「ライター×動画編集者・はるぼー」現在の仕事内容
ーまずは、現在のお仕事について教えてください!
ライター・取材ライター・動画編集者を組み合わせながら、フリーランスとして活動しています。
動画編集者としての活動はまだ少ないんですが、これから増やしていきたいですね~。
いなフリやコワーキングスペースまるもを運営している、株式会社Ponnufの非常勤スタッフも担当しています。
1つの仕事に集中すると飽きやすくなっちゃうので・・・。
収入源を分散する目的もあり、複業をしていますね。
ー色々なお仕事をされているんですね!
収入源を複数つくっているのは、会社員時代の経験があったからなんでしょうか?
以前勤めていた会社では、経営が上手くいかない時期はグループ会社へ出向になることがあって。
「経営が傾いても、会社は自分を守ってくれないんだな・・・」と感じていたんですよね。
ーなるほど・・・。1つの収入源しかないことへの危機感があったんですね。
震災ボランティアを経て会社の退職を決意
ー会社員時代含め、Ponnufスタッフになるまでの人生について伺いたいです!
高校時代までは地元の静岡県沼津市で過ごしていて、親に言われるがままの人生だったんです。
おとなしい性格で、自分の意見も言わなかったですね~。
通っていたのが工業高校だったので、製造業の求人が多くて。
就職先も「名前が知れているし、この会社が良いんじゃないか」と親に決めてもらうような高校生でした。
ー現在のフリーランスとしての生き方とは真逆ですね!
高校を卒業後、進学するという選択肢はなかったんですか?
先ほど「親に言われるがままだった」と話したんですが、両親がやや過保護なところがありまして・・・。
両親から離れて自立したい気持ちが強くて、進学よりも就職を選んだんですよね。
両親という近い関係だからこそ、今後も距離感は大事にしたいと思っています。
ー私もいなフリの受講前に両親と久々に暮らしたので、共感しますね~。
就職後はどんな生活だったんですか?
高校卒業後から7年間、神奈川の工場に勤務していました。
念願の一人暮らしができたことは良かったのですが、工場での仕事は得意ではないし、注意力も散漫になってしまうしで・・・。
いつしか人間関係も崩れてしまって、職場の人からパワハラを受けたことで心を壊してしまったんです。
ーそれは大変でしたね・・・。
そこから今の元気なはるぼーさんに戻るまで、何が転機となったんでしょうか?
会社を一週間ほど休んで訪れた、東日本大震災のボランティアがきっかけでしたね。
「奇跡の一本松」で知られている、陸前高田市で活動したんです。
震災から6年経った2017年のことでしたが、現地へ行ってみたからこそ「復興はまだまだなんだ・・・」と実感しました。
そのボランティアを通して
「このままではダメだ、明日生きていることは当たり前ではない」
「嫌々働いていては、自分に対しても、生きたくても生きられなかった人に対しても、失礼だ」
「ここで出会ったような熱い想いを持った人たちと、何か一緒にできたらいいな」
と思うことができたんです。
ボランティアを経験した後、会社を退職することを決意しました。
農村支援ボランティアからいなフリ受講に至るまで
ーそんな経緯があったんですね。会社を退職した後は、何をしていたんですか?
陸前高田市で知り合った方から「農村支援ボランティア」(緑のふるさと協力隊)について教えてもらったことがあったんです。
農村支援ボランティアに応募し、長野県の泰阜(やすおか)村へ1年間の派遣が決まりました。
ー高校生までのはるぼーさんからは考えられない、思い切った行動ですね!
泰阜村に行くことを決めたのは、何か理由があったんですか?
農村支援ボランティアは派遣先を決めるのが自分ではないので、偶然でした。
泰阜村は人口が1,700人ほどでお年寄りが多く、村の中でも一般的に“限界集落”と呼ばれている地域で活動してましたね。
そこで地域の人々への声掛けや、様々な業務のお手伝いをしていました。
ー私も地域おこし協力隊の経験があるので、緑のふるさと協力隊も聞いたことはありましたね。
任期後も、そのまま地域に残るという選択はしなかったんでしょうか?
正直に言うと、一個人ではなく「緑のふるさと協力隊」としての活動を求められることが多かったんです。
周りの人に“協力隊の自分”として合わせているうちに、なんだか疲れてしまって・・・。
自分のやりたいことを通そうして、反対されることがあったのも「疲れたな」と感じた理由のひとつでした。
ー地域おこし協力隊の人からも、同じような話を聞いたことがありますね。
消防団への参加、催し物のお手伝い、お祭りの運営、神社の環境維持など、関わる業務もたくさんありました。
田舎でのスローライフをイメージしていたものの、暇だと思ったことは一度もなかったですね。
1年間の任期を終えた後は一旦実家へ戻ったんですが、そのタイミングでいなフリの受講を決めたんです。
昨年(2019年)の6月にいなフリを受講してからは、金谷に住んでいます。
ー山あり谷ありの人生を経て、現在のみんなから愛されるはるぼーさんがいるんですね!
そうですね!僕もみんなを愛しています!!
ー皆さんへのメッセージ、ありがとうございます(笑)
いなフリを知ったきっかけは何だったんですか?
工場を辞めた直後に、旅をしていた期間があったんです。
そのときに高知県のNPO団体である「ヒトマキ」さんに、1週間滞在・見学させてもらうタイミングがあって。
ヒトマキさんは「若者が何度でも生き方を選べる社会をつくりたい」と活動されている素敵なNPO団体なんです。
そこで、いなフリの関係者(ハリーさん)と出会ったんですよね。
泰阜村へ行くことが決まっていたので、当時は「フリーランスになるための講座があるんだ~」くらいに思っていました。
農村支援ボランティアの任期後にふと思い出して、もう一度調べ直した上で受講することを決めました。
自由になりたくて会社を辞めて田舎に行きましたが、田舎も自由ではなかったので・・・。
いなフリの受講は逃げに逃げを重ねた選択だったんですよ。
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ここまで、ライター×動画編集者・はるぼーさんの現在のお仕事と、いなフリと出会うまでの経緯について語っていただきました!
後編では、いなフリ講師になった理由や今後の展望についてお話を伺います。
【後編はこちら】